2019年8月24日土曜日

大量殺戮があった島原の乱 原城跡 HD PENTAX-D FA 15-30mm F2.8 ED SDM WR

江戸時代初期1637年に天草四郎を旗頭としてキリシタンたちが中心となって起こした超大規模な一揆が、ご存知「島原の乱」です。
一揆軍37,000人は、幕府軍の総勢13万人に対して5ヵ月もの長期間を戦い抜きました。その舞台となったのが島原半島東南方向にあるここ「原城」です。原城は当時廃城だったものに、一揆軍が籠城したとのこと。
(僕はずっと勘違いしていたのですが、島原の乱の舞台は島原城ではありません)

こちらが当時16歳で、キリシタンの中でカリスマ的人気を得ていた天草四郎の像。

幕府が総力を結集して鎮圧しようとした軍を相手に、どうやって5か月もの長期間戦い抜いたのか?その城はどのようなものであったのか?
その漠然とした疑問と興味に僕はずっととらわれており、今回の島原・雲仙旅行を機に、ちょっと遠かったけどこの原城を是非訪ねてみよう、ということになったのです。

今回はHD PENTAX-D FA 15-30mm F2.8 ED SDM WRという超広角レンズ1本での撮影。このレンズの幅広い描写力をご覧いただければ、と。


諫早に住む妻の叔母から
「原城なんか、行っても何も無いわよ。石垣も崩されていて、ただの原っぱみたいなところでつまんないわよ」
と言われていました。それでもこうして来てみたのですが、確かに本丸跡は何もありません。

大手門跡付近も、幕府が再度一揆の籠城拠点になることを恐れて徹底的に棄城したため、この城をどうして長期間落とせなかったのか?という防御力の秘密をみることはできませんでした。

ただ、この場所はとにかく青く美しいところです。

これほど美しい場所で、一揆軍、幕府軍併せて4万人以上もの殺戮が行われたとは信じられません。
そう、最終的には、一揆軍は女・子供を含めて皆殺しとなりました。
(一説では、37000人のうち、生き残ったのは内通者ただ一人!!?という・・・・ね)
幕府側にも多大な犠牲(死傷者1万人とも)が出ています。
このことを知っていると、以下のような場所の土の下には何が埋まっているのか・・・・・
あまり想像したくはありません。

今はこのように平穏な場所ですが、かつてはこれだけの空間がとてつもない密度の濃い場所だったのです。

今は、供養塔がぽつんと建っているのみです。

絶望的な戦いを繰り返しながら一揆軍の人たちが眺めていたであろう景色です。この海側の絶壁も守りが固かったようです。兵糧攻めをされて食料が無くなってからは、一揆軍はここから海へ降りて海藻だけを食べて命をつないでいたとのこと。
このように、この場所で何が起こったのか?それを想像することができなければ、今となってはただの美しい見晴らし台でしかありません。

天草四郎のお墓。合掌。











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